日本一のMRから薬局経営に進出した木村さんが、事業承継で守りたかった思いとは
木村哲朗さんは神奈川県内を中心に6店舗の調剤薬局(ななほし薬局)を運営しておられましたが、50歳にしてグループ化による事業承継を決意。当社がお手伝いさせていただきました。
調剤薬局事業に乗り出す前は、大手製薬会社4社でMRと本社マーケティング部に従事、うち3社で営業成績全国1位を獲得するなどの輝かしい実績をお持ちです。調剤薬局の事業も、MRで得た経験と知識、人脈を活かしたもので大変順調に推移しており、クリニック開設などにかかわる開業医向けコンサルティングも手掛けておられました。しかもその内容は広く濃く、クリニックの開業候補地の選定から建築工事・内装工事関連、人材の採用までをトータルに手掛けるというもので、医師の方々から絶大な信頼を寄せられていたことは言うまでもありません。
そんな木村さんを私は、白優社を設立する前の会社員だった時代から存じ上げており、その卓越した手腕とお人柄に傾倒し、人生の師と慕ってきました。ですから、その木村さんから、事業承継の依頼をいただいた時には、うれしく誇らしい気持ちと同時に、満足していただける仕事ができるだろうかと非常に緊張しました。
事業承継において木村さんは、何を一番大切に考えておられたのでしょう。私は期待に応えることができたでしょうか。など、忌憚のないお話を聞かせていただきました。(白形優太)
3社で全国1位を獲得する
絶対に他社の誹謗はしない
そうだクリニックモールを作ろう
運命共同体になれる
自分でやることに限界を感じた
イズムまでも大事にしてくれた
3社で全国1位を獲得する
――最初に木村さんがMRになった理由からお話しいただけますか。もともと製薬や医療の世界に興味があったのでしょうか。
私が就職活動をしたのはバブルが弾けた数年後で、景気の良くない時期でした。大学は青山学院の理工学部でしたが、内定をもらえたのは三菱鉛筆の水性インクの研究とMR。研究の仕事はちょっとできないなと思ったので結果的にMRになりました。実家が幼少期にホストファミリーをしていたこともあり、本当は総合商社で世界中を飛びまわる仕事がしたかった。
――実際、MRをやってみてどうでしたか。
多分、世の中的にMRの仕事って大変というイメージが強いと思いますが、本当にその通りでした。もう最初から、これ10年は絶対続けられないなと思いました。
――ところが長く続いて、全国1位にも輝いた。しかも3社で。
そうですね。でもそれは、私個人の力というよりは、チームとか営業所のメンバーのサポートが大きかったと思います。すごく恵まれていましたから。たとえば最初の会社で日本一を獲った後、翌年には、全国にMRが700人ぐらいいる中で、私のチームが3人とも1位、5位、7位でトップ10入りしました。
――ゴールデン・チームだったんですね。ですが、お互いを高め合い、相乗効果を発揮するにはやはり、個人の力量は重要ですよね。
多分私は、雰囲気づくりが上手いのかもしれません。年齢が近かったこともあり、3人とも仲が良くて、しょっちゅう飲みに行っては言いたいことを言い合って。お互いに刺激し合っていました。
――どのような働き方をしたら、全国1位になれるのでしょう。
最初に1位を獲ったのは入社から6年目でした。それまではトップ10に入っても、ボーナスが少し上乗せになる程度だったんですが、その年は初めてトップ20位に入ったらヨーロッパ旅行の報奨が付くことになりました。それで得意先の先生方に、「私日本一獲りたいんです。助けてくれませんか」とお願いして回ったら、協力してくれました。もう6年も担当していたので、信頼関係ができていたおかげだと思います。
絶対に他社の誹謗はしない
――信頼関係を築くために心がけていたことはありますか。
①約束を守る、②時間を守る、③嘘をつかない、④言われたことはすぐやる、という4つを常に意識していました。それだけです。他のMRと違うことは特になかったと思うんですが、ただ、意識していたのは、絶対に他社の誹謗はしない。「あれは良くない」とは言わない。「あれもいいけど、うちのはもっとここがいいんですよ」とか。相手をちょっと褒めて、自社の製品を思いっきり褒める。普段の生活でも、ネガティブな言葉は使わないようにしています。そこが信頼につながったのかもしれません。
――加えて木村さんの場合、常に自然体で、頭をペコペコ下げたりしないのに、人の懐にスッと入り込んでしまう。そんな才能があるように思います。
私は昔から、絶対にペコペコしないです(笑)。自分は仕事に対して誠実であり、自信をもっていたので。
――ウインウインだからこそ、誠実さが伝わり、先生も心を開いてくれる。
そうかもしれないですね。あと、ある程度ベテランの域というか中堅になってからは、もう薬の話をするのもやめました。先生から「薬の話、しなくていいの?」、「宣伝しなくていいの?」みたいに、聞いてくれるようなケースが増えましたね。
――それはどうしてですか。
会社にいて、お昼休みや休憩時間とかに保険の営業マンが来て「ちょっといいですか」って売込みされるのがすごく嫌だったんです。だから先生方も嫌だろうなって思い、やめました。その代わり、説明会は多分どのMRよりも多くやっていましたね。
それもテクニックがあって、時間の中で「今日のポイントはこれです」「これだけは今日覚えてください、先生」ってわざと1か所か2か所だけポイントをお伝えします。すると偉い先生や気難しい先生から、「今までMRの説明会ってちゃんと聞いたことなかったけど、今日初めて全部聞いちゃったよ、面白かったよ」と言ってもらえる。それが快感でした。
そうだクリニックモールを作ろう
――薬局経営を始めたきっかけはなんだったんですか。
ちょうど2000年頃、厚生省(当時)が37のモデル国立病院に対して完全分業(院外処方箋受取率70%以上)を指示したのをきっかけに、院外処方が急速に進みました。それで10軒以上のクリニックから「木村ちゃん、ちょっとうちの門前やってよ」とお願いされることがあり、薬局経営も成功できるのではないかと思い始めたのです。
ただ、当時は、クリニック1軒に対して薬局1軒というのが主流で、先生に万が一のことが起きたらおしまい、みたいなところがありました。それはリスクが高いと悩んでいたら、クリニックモールという業態が流行りだして、これなら共倒れの心配もないなと。クリニックモールを作って薬局を出そうと考えるようになりました。建築や経営など、いろいろと勉強するようになったのもその頃からです。
――そうした学びも、今につながっているんですね。
つながっていますね。うちの処方元自体は13件なんですけど、これまでに38のクリニックを支援してきました。
運命共同体になれる
――建築まで勉強されたことで、トータルに支援できるのが強みですね。
そうですね、全部できますね。場所探しから、人材確保まで。場所探しをして、クリニックのコンセプトも相談にのって、銀行の融資から何から全部取り付けて、内装工事もやって、スタッフの採用面接とかも全部やってという感じです。
――ご自分でも開業していることも大きい。
本気度が違うし、説得力も違うし。「うちも一緒に出店します」って言えば「じゃあ、運命一緒だね」みたいな感じで先生たちも安心してくれます。全然関係ない薬局を出店させて「あと知りません」だと、「本当ここ大丈夫なの? 流行るの?」ってなりますからね。
――運命共同体ですね。
はい。だから先生たちにも、「これから2、30年、運命共同体になりますが、本当に私でいいですか?」と必ず聞いていました。それから「以前はドクターと業者でしたけど、これからはパートナーとして、対等でいきますからね」って。
大切にしてきたこと
――そこに至るまで、大切にしてきたことってありますか。
医療は保険制度で守られているので、常に誠実にコツコツとやってさえいれば、絶対結果は付いてきます。なので、奇をてらわずにやってきました。
クリニックモールの物件を探す際も、大体年間3、40件ぐらいの出店依頼がありましたが、営利主義むき出しで「じゃあ、薬局さん、いくらお金出せる?」と言ってくるオーナーさんに対しては、「そういう話だったら僕やりません」と全てお断りしてきました。
だからうちのオーナーさんは「俺はこの地域にクリニックビルを経営しているんだと、自慢したいから家賃安くてもいいよ」と言ってくれる方ばかりです。無理をせず、純粋にコツコツやってきました。
自分でやることに限界を感じた
――そんな木村さんが、事業承継を思い立ったのにはどういう事情があったのでしょうか。お話を伺ってきた限り、順風満々で、仕事も大好きに見えます。
じつは今回人生初の挫折を経験しました。無論、思い通りに行かない経験は過去にも多々ありました。それぞれの段階で前向きに「これは次のための練習だな」ぐらいな感じで捉えてきました。就活だって、総合商社を軒並み不採用でしたからね。でも今回は違う。
詳しくは話せませんが、従業員が人として許しがたい不祥事を起こしたのです。でも法律的には解雇することができない。
それでもう我慢の限界というか、不安になって。自分たちがスタッフたちを守れるのか。無力さを感じたと言いますか、本当に挫折ですね。
――それで承継を。
私は今まで、総務、人事、経理、法務、開発、営業、用務員のおじさんまで1人でやってきましたが、もうそれも限界なのかなと。それで大手の組織力をお借りしようと、グループ化してもらう選択をしました。
イズムまでも大事にしてくれた
――承継業務の委託先はたくさんあったのではないですか。それなのにどうして、白優社に任せたのでしょう。
ええ、大手も含めて、他社さん100社以上は来ていました。それなのに白形さんに頼んだのはなぜか。どうしてでしょうね。私は自分が営業マンなので、営業マンを見る目はかなり厳しいんですよ。で、たくさん来た営業マンは圧倒的にうさん臭いやつが多かった。
一方白形さんは、会社員の頃からうちに来てくれていました。8年前、私が42歳のときでしたね、初めて会ったのは。その頃は「60歳までは絶対売らないよ」と公言していたので、多くの営業マンはそれきり、もうやって来ませんでした。18年も通おうなんて思わないわけです。ところが白形さんはその後も年3、4回は「どうですか」と顔を出して、「売りましょう」という話しはせずに、「彼女できなくてさー」みたいな雑談を1時間ぐらいするだけ。で帰り際に「なにかのときには僕に声をかけてください」と軽く言って去って行く。この子は信用できる、絶対成長すると思いました。
――タイプは違うけど、MR時代の木村さんに似ていますね。
当時はまだ25歳ぐらいなのにね。だから私は、普段は営業関係の電話には出ないんだけど、彼からの電話は取って、「ちょっと伺ってもいいですか?」って言われたら「いいよ」って、時間を作って会うようにしていました。だから何かあったら彼に相談しようとは、前々から決めていました。だから事あるごとに、いろいろと相談していましたしね。
事業承継の営業には、100人以上は来ていたと思いますが、信頼できると思ったのは彼だけでした。
――実際頼んでみて、白形さんの仕事はどうでしたか。
まず彼は、経過を随時報告してくれるんです。私が質問や意見を投げかけた時には、相手方の反応などを随時、結果が出てなくても「今この状態なんで、また報告します」と、分かりやすく経時的に報告してくれました。ベストなやり方だと思いましたね。
というのは、私もそれをすごく心がけていたからです。相手が安心するように。で、彼が今まで手がけたことを聞いてみると、やっぱり同じようにしている。だから上手くまとまるんだなと。
今回のグループ化でも、私自身が可愛がってきた会社でありスタッフたちなので、私の想いと同じように、大事にしてほしいと思っていました。彼はそれをちゃんと考えてくれたんですね。「じゃあ、木村イズムを承継してもらう前提で大手に引き継ぎましょう」みたいなことをすごく言ってくれて、先方も、なるべく引き継ぐと約束してくれました。こういうことは、過去には、あまりなかったことだと聞いています。
――そうですね、普通は画一的に変えてしまいますよね。
白形さん以外に任せていたら、「(グループ化したんだから)もう明日からここは当社のやり方に従ってもらいます」みたいにされていたと思うんですよ。
現場は決まってないことも多かったのですが、そのつど「協議したもので、じゃあ“ななほし薬局さん”のやり方で、そのまま行きましょう。どうすればいいですか」と、しばしば尋ねてくれました。現場はちょっと不安に思ったみたいですけど。「でもそれは良かれと思ってやってくれているんだから、合わせていこうよ」と、納得してもらっていました。
――木村さんが果たしてきた役割は、ほかに代わりがいないので、イズムごと承継してもらうと、クリニックの先生方も安心できますね。でも正直なはなし、「ここはダメだったな」ということは、本当になかったんですか。
ないんですよ。それが。めっちゃ考えたんですけど(笑)。彼も「改善してほしかったところとか、次回はこうしたほうがいいよっていうアドバイスありませんか」って何度か質問してくれたんですけど、ないんですよねー。
本当、不満はないです。逆に彼の仕事で、私に手伝えることありそうなので、今後一緒に何かやれたらいいなと思っています。
(取材・文 木原洋美)
(撮影 武藤奈緒美)
木村さん、お褒めいただき、ありがとうございます。
ななほし薬局の事業承継では、木村イズムをちゃんと理解してもらわなければならないという前提で、候補先の大手各社に話を持っていきました。これまでのお付き合いの中で、木村さんが何を大切にしてきたかなど全部聞いていたので、大手がそのままに真似するのは難しいと思っていたからです。大手のやり方を押し付ければ、多分いろいろな問題が起きてしまうことも目に見えていました。
こうした私のやり方は、これまでのお付き合いを通して、木村さんからまなんだことだと思っています。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。