Vol. 02:株式会社いづみコーポレーション 代表取締役 山本 諭史さん

中世から近代にかけて日本の経済活動の基礎作りに大きな役割を果たした近江商人には、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしの哲学がありました。いざというときに頼りになる町の薬局は、私たちの生活になくてはならないものです。急になくなってしまったり、オーナーチェンジがあったとしても、安心して以前と変わらず利用できること、そして、そこで働く従業員も、もちろん新旧のオーナーも満足できるスムーズな店舗売却は、地域社会にとっても重要です。

私たち消費者も、そして売り手も買い手も笑顔になるようなM&Aで、美しい引き際を実現させた山本諭史さんにお話を伺いました。

株式会社いづみコーポレーション代表取締役: 山本 諭史さんへのインタビュー

Q:山本さんのお母様はまだ処方箋薬局というものがなかった時代から、女性薬剤師として活躍していらしたそうですね。

A:はい。母は売薬のみを取り扱うと共に化粧品なども売っていた昔ながらの薬局を経営しておりまして、私はずっとその母の背中を見て育ちました。

Q:ということは、薬剤師の道へ進むというのは子どもの頃からの自然な流れだったのですか?

A:そうですね、答えはイエスでもありノーでもあります。兄がいるのですが、兄は早くから薬局は継がないと言っていたため、母には高校のときから将来継いでほしいと言われていました。そのため、私は大学も薬学部に進学しました。とは言え、そのまますんなりと薬剤師にはなりませんでしたが。

薬剤師の国家試験に通って免許をとってから3年間は、アルバイトでお金を稼ぎながら、芸大専門の予備校に通っていました。画家になりたかったので。

Q:画家ですか! しかも芸大専門の予備校に通われるということは、本気で目指していらしたのですね。

A:はい。どうしても諦められなくて3回受験しましたが合格には至らず、もうこれ以上母に迷惑はかけられないと思って、薬剤師としてやっていく心を決めました。

Q:もし合格していらしたら、全く違う人生だったことでしょうね。でも、お母様としては跡継ぎができてホッとされたのではないでしょうか(笑)。山本さんが後を継がれた後に日本は医薬分業に大きく舵を取り、病院から独立した調剤薬局が本格的にでき始めました。いわば近代的な調剤薬局の黎明期をご自身で体験していらしたわけですよね?

A:そうですね。私は今71歳ですが、36歳か37歳の頃に、それまで病院で医師が出すものだった薬は、処方箋を持って薬局に行って処方してもらうという方式に変わっていきました。

Q:医薬分業のメリットはどういうところにありますか?

A:一言で言えば、私たちは薬の専門家ですから、外科、耳鼻咽喉科、内科など幅広い分野の薬の知識があります。ですから患者様お一人お一人に合わせてケースバイケースでよりていねいに安全性の高い指導ができるところでしょうか。

Q:逆にデメリットというか、始まった当初の逆風のようなものはありましたか?

A:患者様からは、薬代が高くなるんじゃないかとか、わざわざ病院と薬局、二箇所に行って同じような説明を二度受けなければならないから面倒だという声がありましたね。実際に最初の半年はそういった苦情をおっしゃってくる方も多く、きめ細かい説明をしていって慣れていただくしかありませんでした。

また、医師側にも職分を奪われるのではないかという心理的なハードルもあったと思います。病院からしても薬を出す人の人件費、手間暇を考えると分業にしたほうがいいということを理解していただきました。

私は調剤薬局としていづみファーマシーの一号店を港北ニュータウンの一角、クリニックの隣に開きましたが、クリニックの先生もまだお若く、こちらの説明を理解していただけたのはよかったですね。最初はその先生とがっちりパートナーシップを組み、他の病院からの処方箋を受けることはありませんでした。現在のように患者様がいろいろな病院の処方箋を自分の好きな薬局に持っていって処方してもらう、という形が確立したのは、それから10年ほど経った頃だったと思います。

Q:最初は完全に一つの病院に一つの薬局とマンツーマンだったのですね。現在ではすでに当たり前になっている医薬分業への過渡期ならではのお話だと思います。

A:そうですね。でも、やはり病院とマンツーマンというのは経営者としては不安です。そのクリニックや先生に何かあったらこちらも共倒れになってしまいますから。そこでやはり複数のクリニックとのお付き合いがどうしても必要になってくるわけです。そうなると、やはりそこは病院の先生との人間関係が勝負になります。だから当初、町の薬局は調剤薬局を目指す人はあまり多くなく、製薬メーカーの営業マンであったり問屋さんの薬剤師であったり、すでに病院にある程度コネクションを持つ人が調剤薬局を開くケースが多かったように感じます。

Q:山本さんはそういった不安をどう解消していったのですか?

A:ちょうど子どもも二人生まれた頃で、これからお金が必要になるとわかっている時期でしたからね。一軒では心許ないと、多店舗展開をしていきました。その際、私のポリシーとして問屋関係の支払いがきれいで早かったこと、また問屋さんと良好な関係を築いていたことが役に立ちました。信頼関係がある問屋さんに「あそこは信用できますよ」と言っていただいたりして、無料でうちの営業をしていただいたような部分もあってありがたかったと思います。

Q:多店舗展開を始められてからはどのような感じでしたか?

A:とにかく忙しかったですね。一号店には自分も入ることはありましたが、基本的にはしっかりとした薬剤師を店長として雇っていました。二号店以降はオーナーである自分の仕事は従業員の給与計算とお医者さんとのつながり作りと決め、現場の仕入れや運営はそれぞれの店長に任せていましたが、それでもとにかく仕事が大変でした。

私はサラリーマン経験がないので、組織作り一つをとってもなにをどうしたらいいのかわからないことだらけで、このままでは自分の身体がもたないと危機感がありました。そこで各店舗を分社化して店長をそれぞれの社長にし、自分は本社として子会社の株を所有するというホールディングス形式に変えました。

現場を離れたことで、正直ほっとしましたし、ストレスは大分減りましたね。

分社化によって時間もできたところで、忙しさにかまけて心の奥底にしまいこんでいた昔の夢がむくむくと再び頭をもたげてきたわけです。

Q:絵、ですね?

A:はい、絵です。多摩美術大学を受験しまして、無事合格しました。当時還暦近かったのですが、年下の同級生たちと油絵を学びました。楽しかったですね。教授のほうが年下なくらいでしたが。よく同級生と食事や飲みにも行きましたよ。美大生は画材などにお金がかかりますからお金に困っている学生も多く、私が行くとおごってあげるものですから、よく誘われました(笑)。

Q:下手をしたら自分の孫くらいの年齢とお友達付き合いができる還暦なんてそうそういないですよ。人生エンジョイ!ですね。

A:いやいや、現場に出なくなったとは言え、本社の社長ですからね。色々と大変なことはありました。やはり人を使うことの難しさですね。こちらがとても飲めないような要求をされたり、日々のストレスはあるわけです。そうこうしている間に息子と娘は畑違いの道を選びまして、いずれにせよいづみファーマシーは自分一代で終わりだな、となりました。そしてどうせ終わるのであれば、調剤薬局として社会的な責任もありますし、こちらの頭がしっかりしている間に美しく終わらせる、つまり誰にも迷惑にならないようにスムーズに誰かに引き継いでもらうことが絶対に必要だったのです。

Q:そこでM&Aを考えられたわけですね?

A:いや、最初に店舗を譲ることを考えたのは57歳の時でしたが、まだその頃はM&Aなんて言葉は一般的にはありませんでした。そこで分社化した支社長に売りました。お蕎麦屋さんの暖簾分けのような感じです。

Q:そうやって全て暖簾分けしていくつもりだったのですか?

A:閉めたところもあります。お医者さんが高齢化して患者様の数もどんどん減ってしまって経営が成り立たなくなってしまったので。それでも調剤薬局の社会的責任もありますし、その先生も一応まだ診療はしていたので、こちらの都合だけで閉めるというわけにはいかなかったのですが、ちょうど近所に別の調剤薬局がオープンしまして、そのタイミングで閉めました。

暖簾分けのようなやり方しか知らなかったものですから、閉めるか、少しずつ子会社の支社長に売っていくしかないのだろうな、と思っていたのですが、2014年でしたか、業界雑誌の記事でM&Aによる譲渡という道があることを知りました。

Q:最初は大手の仲介で売却をなさったんですよね?

A:そうですね。初めてのことなので適正な売値などもよくわかりませんし、相手の言うがままに「こんなものなのかな」と思っていました。

Q:後から考えると初めてのM&Aはどうでしたか?

A:正直なことを言えば、少し悔やまれますね。価格なども特にこだわらず、相手のリードで話を決めてしまったので、今思えばですが、もう少しできたことがあるんじゃないかとか、あの知識を知っていればという点もなきにしもあらずです。

Q:2店舗を大手でM&Aした後、白優社で、と考えられた理由は何ですか?

A:本当はその時はもう売る気はありませんでした。社長の白形さんからお話をいただいた時も「売る気はないよ」と一度お断りしています。その後も「値段だけでも聞いてください」「聞いても売らないよ」というようなやり取りがありまして、話し方も誠実だし、とにかく一生懸命話をする人だったので、「じゃあ、話だけなら」ということになりました。

その時に出された値段が私の想定を大きく上回っていたこともあって、これなら任せてもいいかな、と。私が白優社のM&A第一号になったのではないでしょうか。

Q:第一号ということで不安になりませんでしたか?

A:それはないですね。元々大手の薬局でM&Aをされてきたのを知っているので。それに、大手だから安心、新規参入だから不安ということはありません。第一、現金のやり取りですから、お金が動くのは契約が全て終わった後です。完全成功報酬制なので、嫌ならいつでもやめられる、損をすることはないだろう、という安心感はありました。

Q:実際に白優社に頼んでみて、どうでしたか?

A:一番いいなと思ったのが、大手と比べて小回りがきいて親切だったことです。大手との交渉は全て向こうのペースでした。打ち合わせにしても向こうから「この日この時間でなければだめ」と言われたり、そういう形が出来上がっているのでしょう、書類も多く、手付金はいくらとか、決まったフォーマットのようなものがある感じでしたね。

こちらとしては、「そういうもんか」と言われるがままに契約手続きが終わりました。今思うとずっと相手のペースでした。

その点白優社は、私が「今ちょっと来て」と連絡するとすぐに来てくれて、納得するまで説明してくれました。大手の業者はM&Aに手慣れていてパッパッとシステマティックに物事が進むのですが、私は初めてですからわからないことだらけです。疑問を抱く暇もなく、売却が終了しました。そういう点を考えてみると、慣れていない私には、ずっと寄り添ってくれる白優社のほうが合っていたと思います。

Q:白優社の仕事で良かったなあと思う点はどこですか?

A:全般的によくやってもらって満足していますが、特に従業員の説得までしてもらったのはよかったです。私も人を使う難しさは身にしみていましたからね。分社化した社長は「自分が新しいオーナーになるんじゃないか」と考えていたでしょうから、そうではなくM&Aするとなると、子会社の社長ではなくチェーンの店長という立場になります。こういうデリケートなことは、私が直に話すより、白形さんに間に入ってもらうことで感情的になることなく、納得してもらうことができました。やはり私には直接言いにくいようなことでも、第三者になら言えることもあるでしょう。従業員にとっても良かったのではないでしょうか。

Q:なるほど、何事も基本は人と人ですものね。間に入って話してもらったほうがお互いに納得がいくというのはわかります。そういったフォローも含めて、売却までに時間はどのくらいかかりましたか?

A:話をもらってから3ヶ月、実際に動き出してからは2ヶ月でした。白優社は情報網がすごく、最初から安心して任せられるような大手のきちんとしたところを買い手としてピックアップしてくれただけでなく、病院や従業員や患者様たちに迷惑がかからないように動いてくれました。

従業員も残ってくれましたし、店名もそのまま。まったくブランクなく引き継ぎができたので、患者様はオーナーが変わったことに気づいていないのではないと思います。

今でも店の前を通るたびに、「元気でやっているな」と安心して見ているんですよ。

Q:お嫁に出した娘が嫁ぎ先で幸せにやっているのを物陰からそっと見守る父親みたいな感じですね(笑)。お医者さんも患者さんも、そして従業員も笑顔になるM&Aを成し遂げ,美しい引き際を実現なさった山本さんですが、ご自身の現在の生活ぶりはどうですか?

A:ゆっくりと趣味の絵を楽しむ時間もできましたし、本当に良かったですね。実は息子のほうが店を継ぎたいと考えたこともちらっとあったのですが、本人の適性や状況が変わっていく中での調剤薬局の将来性を鑑みて、「やめておいたほうがいいんじゃないの?」とやんわりと止めたんですよ。

これからは、妻とのんびり旅行をしたり、ようやく人生を思いっきり楽しめるのではないかと思っています。

インタビューを終えて

「立つ鳥跡を濁さず」ではないですが、ビジネスは始める時と同じくらい、やめる時が難しいのではないでしょうか。特に社会的な役割が大きい調剤薬局ですから、山本さんのように胸を張って「美しく終わらせられた」と言うことができる幕引きは理想的なのではないかと思いました。

テキスト:医療ライター 剱木 久美子


山本 諭史さんのプロフィール

株式会社いづみコーポレーション代表取締役
薬剤師・元薬局経営者

約35年にわたり調剤薬局を経営。従業員への承継も可能であったが、業界の将来性などを考え、大手調剤薬局への譲渡を決断。現在は画家として活動中。


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